熱帯魚と週末の儀式

 
 
祖父は、私の両親と孫である私の三世代で同じ屋根の下に住んでいた。
今から半世紀前の昭和40年半ばのことである。
その後、5年して私の弟が誕生するのだが、その歳の冬に祖父は肺病を患い亡くなっている。
従って弟が持つ祖父の印象は遺影の写真だけでしかない。
それに比べて私は初孫ということもあり、大変可愛がって貰った。
祖父の話し声や仕草までも今もしっかり覚えている。
 
祖父は近所の鉄道車両工場に勤めていた現場職人だったらしい。
しかし私の記憶はいつもスーツ姿にネクタイを締めていた。
後々、親父に祖父の服装に聞いてみると、祖父はずっと現場で作業服を着ていたことが嫌で堪らなかったらしい。
定年した次の日、祖父はスーツを作りに行ったそうである。
定年退職後、祖父はひなが一日、盆栽、将棋に明け暮れて私を連れ回していた。
そしてもうひとつの趣味に熱帯魚飼育があった。
どんな経緯で祖父がこんな田舎に横文字名の熱帯魚を飼育することになったかは家族全員知らない。
ある日、軽トラックとともに何人かの兄さんが大きな水槽やフィルター、水草等を家の玄関前に設置した。
その日から我が家の玄関は熱帯魚に占拠された。
 
祖父は週末になると長靴にスーツという出立ちで、ホースで水を掛けながらタワシで水槽の掃除をした。
私もその日は祖父同様に子供用の長靴を履き、張り切って掃除を手伝った。
なぜなら、その掃除が終わると決まって祖父は、近所の蕎麦屋に連れて行ってくれるからである。
別段、私は蕎麦が好きで無いが、蕎麦屋の女将がくれるお茶菓子が目当てであった。
祖父は掃除がひと通り終わると煙草を付けて一服する。
その後、いつもこんな一言をボソリと語る。
「愛でたい。愛でたい。温和なグッピー、テトラやら、、、、。」
これは祖父と私だけの秘密の儀式であった。
これが終わると祖父は煙草を消して「蕎麦屋に行くぞ」となるのである。
 
あれから半世紀が経過した。
ダイヤル式の電話機と一眼レフカメラは無くなり、個人用のスマホになった。
我が家の家族構成は私と妻、娘の3人家族となった。
我が家のマンションの玄関には小さな水槽があり、僅かな熱帯魚が泳いでいる。
週末になると私はひとりで水槽を掃除している。
秘密の儀式は今でも一人でやっている。